虚構の男がゴミ捨て場に不時着する。

極力毎日掌編。そうさユアグローもどき。或いは『絵のない絵本』の月。

横断歩道を渡らない男の言説

男は自分が盲目であるとは断じて思ってはいない。男は「あれが青」「あれが赤」で目が見え色がわかり、また「青は進め」「赤は止まれ」で信号の機能を理解しているから自分が横断歩道を渡ることができるのだと思っていた。

男はある日、「あれが青であれが赤だ」と人間に語ったところ訝しげな表情をされた。別に人間にも同じように伝えたが同じように奇妙な顔をされて終わった。以後、誰にそのことを言っても同じだった。「あれは青ではなくあれは赤ではないらしい」。男は挙句、「お前はおかしい」と言われ、本当に自分はおかしいような心地さえしてきた。

やがて男は自分が盲目であることに気づく。以降、横断歩道を渡ることができなくなる。男の脳裏には他の人間が確実に信号の色を識別して横断歩道をいとも簡単に渡っていく姿だけが浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返し、まるでいい気はしなかった。

そして男が盲目であることを誰もが知らない気づかないわからない、誰一人として。どれだけ説明しても納得してはくれない意味が分からないと気持ち悪い、みんなそう思った。

それは、どうしてか。

男には目が見えたのだ。

今日も男は横断歩道の前に立ちすくんでいる。男は車に轢かれるのが怖い。車に轢かれれば死ぬ。死ねば大体のことが終わる。

男は動けない。足の裏に点字ブロックの感触だけある。風が肩を揺らした。人の動く気配だけがする。「あれは青だ」と男の視覚が脳に伝達している。しかし、男はそれが青であるという自信がない。「あれが青である」と男の視覚が脳を騙していないと言い切ることができない。男は車に轢かれるのが怖い。車に轢かれれば死ぬ。死ねば大体のことが終わる。

男は歩き出せない。足の裏に点字ブロックの感触だけある。この点字ブロックは点状のやつなのか線状のやつなのか、男にはわからない。男は感覚が鈍い。そもそも踏んでいるのは点字ブロックなのか。単なる小石であるとか、なんでもない地面の凹凸ということはないか。靴を履いている足の裏の感覚では判然としないが、そもそも靴など履いているのか。そういえば少し寒くないか。僕は服を着ていないのではないか。ここは何処だ。横断歩道は何処だ。頼むから渡らせてくれ。

男は「青だから」という理由を振りかざして横断歩道を容易く渡っていった君たちが憎い。男は赤信号を渡って大型トラックに轢かれて眼球と脳を顔面にびちゃびちゃと迸らせて死んだらしいが、男の目に或いは脳にそれが赤く映っていたのかを誰も知らない。君たちは「赤信号なのだから赤く目に映っていたに違いない」と笑うだろうが、そう笑う君たちもまた男の想像でしかなかった。

男は青い血を流して死んだとか。なんとか。よく知らない。どうでもいい。よくない。よくわからない。

-N0.16-